24.ミライ?負け犬の遠吠え:ミライ?この処、体調が思わしくない。 だから泣き言。 親父は、それまで工場の『分析』なんて部署にいた。 私が小学生低学年の頃のことである。 『白内障』を患って手術をした。 分厚い眼鏡なしでは生活できなくなった。 そして転属された。 仕事なんて工場の『看板書き』や『草むしり』。 『白内障』が労務災害に該当するのか如何か会社も迷ったのであろう。 クビにすることは出来なかったようだ。 折からの石油ショックで親父の勤める会社は減収減益。 最後には社会党系労働組合すら『合理化』なんて『人員整理』を認めてしまった。 数々の嫌がらせが続く。 最終的な判断を迫られた時に親父は・・・。 『印鑑』と一緒に『一本のロープ』を持っていったらしい。 「今日は『退職願』に判を押す覚悟できた。」 「家には小学生の子供3人にバーさんと家内がいる。」 「ここをクビになったら生活なんてできない。」 「判を押したら此処で頚を吊る。」 「退職金は家内に渡して欲しい。」 未だ親父が『分析』に居た頃に教えたことのあるらしい、『本社』からの『大学出』が工場長になっていた。 親父の静かな声に、総務部長が『退職願』を差し出した途端、工場長が引き戻したという。 「私も非常に苦しい選択なんです。」 「今までのことは許してください。」 って言いながら。 この一件で親父のクビは奇跡的に繋がった。 親父一世一代の『大バクチ』である。 親父が知り合いの町工場に連絡して、「会社がクビになったら雇って貰う」って約束が既にできていた。 私は未だガキだったが、親父が電話で話している内容くらい判る歳にはなっていたのだ。 それまで十人いたのに親父唯一人だけしか残らなかった。 出勤しても机もない。 人員整理のとき以上の嫌がらせが続く。 組織なんてそんなもの。 例え、それが『一部上場企業』であったとしても。 祖父が転落事故で亡くなったのは40歳前後だったようだ。 そして・・・。 親父が『白内障』を患ったのは40歳前後だったと記憶している。 クビは繋がったもののギリギリの生活が続く。 私が大学を卒業する直前に祖母と母を失った。 母を失って10年後くらいに脳卒中で親父は半身不随に。 そんな人生だった。 貧しいながらも私立の大学を卒業した、私も一番下の弟も『コームイン』を選択したのは自然の流れだったのだ。 私の高校時代は単なる『出来損ない』だったし、弟は進学校にギリギリ滑り込んだレベルである。 卒業した大学の『偏差値』なんて考えたら・・・ 「一昨日、また来いっ!!!」ってなモンだろう。 当時の「コームイン」試験なんて表面倍率40倍を軽く超えていた。 そして、私の合格順位は、同期生の数よりも多い。 それを知った時には、チョッとショックだった。 窓口の女性も「合格順位が全てじゃないですからっ!」って一応慰めてはくれた。 でも『可哀相にっ!』って彼女の眼が忘れられない。 未だ経済も順調で、数名の合格辞退者がいたのである。 辞退者を見越して、『合格枠』より数名余分に合格させたらしい。 こうして私も下宿の隣人も「コームイン」の世界に滑り込んでいった。 ギリギリで。 毎日、夜遅くまで残業。 下手をすれば日が替わってたなんて『日々』が続く。 それでも、私の『人生』は、ギリギリの処で望むものを得ていた。 ガキのように何時でも『希望』なんかがあった。 マルで早世した「祖母」「母」「親父」のアナを埋めるみたいに。 そして40歳を過ぎて・・・ 「うつ」になった。 それまで不思議な程に噛み合っていた『歯車』の軋む音が聞こえ始めた。 40歳になった弟の6百万円を超える『サラ金』の借金発覚。 誰も知らなかった3百万円の弟名義の貯金が救ってくれた。 亡き親父の仕業である。 家内が去り、 職場復帰する度にぶり返す「うつ」。 そして40歳を前にした一番下の弟の左遷。 『我が家』は如何も『40歳』ってのが『キーワード』なのかも知れない。 『順調な人生』を『暗転』させる『キーワード』 一度『暗転』した『人生』は軌道修正なんか出来っこない。 親父の独り寂しい背中が眼に焼き付いている。 『悪いこと』が次ぎの『悪いこと』を呼び、一直線に『暗澹たるもの』に向かって突き進む。 『運命の女神』なんて『気紛れ』で『嫉妬』深い。 『一度滑り落ちた者』なんて二度と救わないし『微笑む』こともない。 『暗澹たる人生』・・・。 晩年の親父は「何で『鬼門』に『風呂』なんか造っちまったんだろう」ってスッカリ小さくなった背中を丸めていた。 『母』の『頑なな想い』から我が家では一切の『宗教』が許されていない。 『彼岸』、『此岸』どちらに居ようが彼女の『意思』は絶対である。 そして、早くに『彼岸』に行ってしまった彼女に誰も文句なんて言えない。 『新興宗教(にせもの)』に弱かった親父が、彼女を亡くして後は一切関わろうなんてしなかった。 まあ、『風水』くらいは『お目溢し』である。 「うつ」なんてものは全く先が見えない。 決して直らないって訳じゃない。 『人生の先』どころか明日のことさえも判らない。 今日は調子が良かったからって、明日も自由に動ける保障なんて全くない。 そんな状態でドンナ『夢』が見られるってんだろう。 此の処、訳も無く苛ついたり、眠れなかったり、起きられなかったり・・・。 だから、少しばかり沈んでいる。 『先が見えない』、『夢がない』なんて・・・。 どうなっちまったんだ『私の人生』は! なんて考えてしまう。 タイ王国北部山岳地帯リス族の村に泊まったことがある。 そこから河伝いに『チェンラーイ』まで船に乗った。 20人位が乗れる船尾に発動機が着いた非常に簡単な作りの『舟』である。 『舟』前部の『舟床』から河の水が噴出してきたので、たった一人の『船頭』が知り合いの 住民に発動機を任せ、『舟床』に詰め物を始めた。 アッと云う間もなく、『舟』が右岸に向け蛇行を始める。 慌てた『船頭』が船尾に戻って梶を切り直す。 右岸の『大岩』が目前に迫っていた。 私はディパックを膝に抱え頭を抱え込む。 そして両膝を曲げ衝突に備える。 『ドカン』って強い衝突の瞬間、膝を伸ばし両足を踏ん張る。 暫くして頭を上げると『大岩』の上に『舟』が乗り上げていた。 慌てて『舟』を降り、『大岩』を伝って河岸に移る。 周りの『舟』が集まって我が『舟』を取り囲み始めた。 そして、『舟』の舳先に幾本かのロープを結び、一斉に引っ張る。 大きく廻り込みながら『舟』は無事着水した。 『大岩』に非難していた乗客と共に・・・。 先日もANAが高知空港で胴体着陸に成功した。 胴体着陸など飛行機事故の死亡者原因で最も多いのは『ショック死』だと聞いたことがある。 だから『何があっても絶対に生き残ってやる』って気概が必要不可欠なんだそうだ。 私は独り旅で『も~っ。如何でも良いや!』って諦めたことがある。 『中華人民共和国西蔵自治区ラサで高山病になった時』である。 高山病による酷い『偏頭痛』に見舞われ・・・ 2~3歩あるく度に大きく深呼吸しては、次の足を出す。 乾き切った氷点下の薄い『大気』なんて、深呼吸する度にカラカラになった『口の中』がひび割れていく。 高山病の治療法は只一つだけ。 『限界高度(高度2千4百メートル位)』より低い場所に行くしかない。 でも一番低いラサの街でさえ限界高度より高いのだ。 二十時間に及ぶバス旅なんて移動中に死者も出ている。 飛行機なんて何時飛ぶのか誰も判らない。 例え天候が良くても乗客が少なければ勝手に欠航してしまうのだ。 飛行機の窓からみたヒマラヤに連なる山脈なんて刃物を重ねたような峻烈さ。 全く自分で脱出するなんて不可能である。 だから『も~っ。如何でも良いや!』って。 ただ、『独り旅』なんて『諦めたら御仕舞い』である。 誰も助けてなんかくれない。 一時は諦めても次の瞬間には『どうやったら生き残れるか?』なんて自然に考え込んでいる。 そして『偶々通りかかった遊び人の金さん』なんかが助けてくれたりする。 『幸運』なんて充てにはしない。 でも『幸運』に救われていく。 そして『幸運』なんて待っているだけじゃ決して来てくれない。 必死に考えて、自分で掴みに行く者だけに『幸運』は微笑み返す。 それが『独り旅』で学んだことである。 でも「うつ」症状の時に『考えること』なんて厳禁である。 考えちゃいけない。先ず脳を休ませなくては・・・。 絶対に『女神』なんて微笑みようがないのだ。 でも私は根っからの『捻くれ者』である。 『楽』なだけの人生なんて面白いか? 嘯(うそぶ)いてしまう。 そして、こんな下らない日記なんて書いていたら・・・ クヨクヨするのも馬鹿らしくなってきた。 『パンドラの壺』に最後まで残ったのは『OMEN(予知)』だったじゃね~か。 『先が見えない』から生きていける。 だから最後に『希望』が残されたって話だ。 『明日のことさえ判らない』って最高に『幸福』なんじゃないか? 何が『40歳で人生が暗転する』だ! 『真っ暗闇』なら何にも見えはしない。 上等じゃないか!面白い。 私は「うつ」って『幸福』を背負って生きていく。 皆さんは皆さんで如何かご勝手に・・・。 |